「体験」による理解
2023年7月13日
蛇の譬え話
「あの路地裏には蛇が出るよ」という噂があったとする。 暗い路地をのぞき込んでみれば、確かに蛇みたいなものがいるのが見える。 当然、そんな恐ろしい所には誰も近づかない。
たが、ある日、勇気を出してその路地裏に行った人がいて、あなたにこう教えてくれた。
「あそこには蛇なんかいないよ、あれはただのロープだ」
また、彼は、そこに蛇がいない理由についても理路整然と説明してくれた。 「そもそも蛇の習性から言って、あそこにいるはずがないんだ」など、うんぬんかんぬん。
その説明はとても妥当で論理的で、あなた自身「うん、そうだね、君の言うとおりだ、反論のしようもないよ」と思ったとする。 でもだからといって、「じゃあ、お前、今すぐあの路地裏に行ってこいよ」と言われたら、ひるんでしまう。足がすくんでしまう。
そんなあなたを見て、彼は不思議そうに言う。
「あれ? 蛇はいないってさっき説明したじゃない。忘れたの? もう1度説明する?」
いやいや、何度説明されても同じ。身に付くのは結局のところ「知識」だけである。 そして、「知識」だけで「蛇はいない」と知っても何の意味もなさない。 だって、現に、路地裏に行こうとすると足がすくんで行けないのだから。
それは要するに、頭では「蛇はいない」という理屈を支持しておきながら、心のどこかでは「もしかしたら蛇はいるんじゃないか」と思っているということだ。 それでは、「蛇はいない」ということを「ホントウに知った」とはまったくもって言い難い。
では、「ホントウに知った」と言えるのは、どういうときだろうか。 それはもう「ホントウかどうか」を自分で体験して確かめたときである。
あなたは勇気を出して路地裏に行き、ドキドキしながら蛇の姿をした何かに近づいた。
「あれはホントウにロープなんだろうか…。理屈ではあいつの言っていることは正しいと思うけど…。でも、ホントウはやっぱり蛇なんじゃないだろうか。」
そして近づいてみると、それはロープだった。上から見てもロープだった。横から見てもロープだった。 つまんでしげしげ眺めてみても、やっぱりロープだった!
あなたは急いで帰って、別の友人にそれを報告する。
「見てきた!あれはロープだった!」
しかし、その場所に実際に行っていないその友人からすれば、それは情報であり、知識に過ぎない。 あなたの知識を得ても、彼は、その路地裏に近づこうとはしないだろう。
「だからロープだったって。そもそも考えてごらんよ、蛇っていうのはさ…」
「うんうん、そうだね、まったくキミの言うとおりだ。理解したよ」
彼は、あなたの説明に対し、「わかったよ」と理解を示す。 いや、それどころか、あなたとまったく同じ説明を他の人たちに明晰に語ることまでできた。 このことからも、彼が、あなたの言葉を正しく理解し、知識として吸収していることは明白であった。
しかし、にもかかわらず、彼は決してその路地裏に近づこうとはしない。 「蛇はいないよね」「うんうん、そうだよね」と話はかみ合っているのに、「じゃあ、そこへ行こうよ」と誘うと、ブルブルと震えだしながら「今日はちょっと…」と言って逃げ出そうとする。
そんな彼を見たら、あなたとしてはこう言わざるを得ないだろう。
「おまえ、ホントウは分かってないだろ」