安岡正篤 易と健康(上)『易とはなにか』
古典
古典に興味を持った。古い時代の思想などに手を出すと容易には抜け出せなくなりそうだ。 思想というのは人間が時代を超えて引き継ぎ発展させていくもので、その継承に書物は大きな役割を果たす。 様々な偉人が同じことを別の表現で伝えていたり、ベースとなる書物があってそれに対する反論なども行われる。
現代の解説書を読んでも、ある書物にはこういった記述があるという引用の嵐だ。それらを追うと際限がない。 しかし、好きでやっているのだから楽しいものだ。
易とはなにか
安岡正篤の講演録である『易とはなにか』という本を読んだ。冒頭、易について安岡は、
私など、易を学ばなければ自分自身がどうなっていたかわからないということを、折にふれて感ずることがある。
と語っている。また易を学ぶことを道楽として捉えていたようでもあり、趣味として生涯楽しんでいただろうということが伺える。
易の何がそんなに面白いのかと考えると、それが原理原則論なのだからだと思う。原理原則であるが故に、現実世界の出来事が頻繁に当てはまる。 過去の出来事も易を通して見ればなるほどと納得いく見方ができるし、未来に関しても易の原理原則に当てはめて見込みを立てれば不思議と当たる。 こんな経験を何度もすれば、楽しくもなるだろうし、のめり込みもするだろう。
易の三義
あらゆるものは変化し続ける。所謂、諸行無常というやつだ。これが真であるならば、変化し続けるという性質には変化がないことになる。 全ては変化し、変化しないものもあるという一見矛盾した状態が成り立つ。その変わらない性質を象徴や数によりシンプルに捉える、これが易の考え方だ。
いわば天地の創造に基づいて人間がこれを維持してゆく、新たに創造してゆくことができるという理法を説いたものでありますから、 易を学ぶというと窮まるところがない。つまり、絶望とか放棄とかいうようなことがないわけだ。窮すれば通ずるので、無限である。
厳しい状況においては希望の書となり、調子が良い状況においては戒めの書となる。それが易経だ。
本書前半は自身の経験も交え易を学ぶ心構えを説き、 後半では『易経』の具体的な解説が行われている。
安岡は、易経の内容もさることながら、その構成・配列にしきりに関心しており、その意図を読み取れた時の感動を何度も伝えてくるのだ。 人間だれしも自分の好きなものについて語るときは熱くなる。講演録であるため、なおさら熱さが伝わってくるようだ。
卦の勉強
易経には基本パターンとして「六四卦」というものがある。
『易経』に続いて卦を勉強しますと、ぐんぐん行くんです。初めから終いまで抽象的に一応たどっても、 何のことやら、感興、情熱が湧かないものだから、要するに空論といいますか、「労して功なし」というようなことになる。
枝葉末節から入り、易経の根底に流れる思想と哲学を汲み取れずに、それぞれの「結びつき」が理解できないとこのようになるのだろう。 英単語を単独で覚えるのではなく文章として覚えるという方法が一時期流行ったが、 本書では六十四卦それぞれの項目が立てられているものの、それぞれが文脈として繋がっている。 そのため、「初めから終いまで抽象にたどる」以上の理解が可能となるはずだ。
例えば、ある卦ではそのパターンの解説と共に次の展開の示唆が行なわれる。そうすると、次の卦ではそれへの対処方が語られるのだ。 これは、易経もともとの並びであって、強引に結びつけたもののではない。
そこに書かれた文章だけでなく、書としての完成度の高さに気が付くと易に対する興味関心が何倍にも膨れ上がるのだと思う。